いのちのコトバ

 先日、昆虫の細密画で有名な画家の熊田千佳慕さんを取り上げた91年の番組「私は虫である〜昆虫画家の小さな世界〜」の再放送がありました。いくつもの印象的な場面の その一つに、熊田さん夫妻が蝉の羽化を見守るシーンがあります。
 暑い夏の夜 地中から這い出てきた幼虫が 葉っぱにしがみついて 羽化が始まります。背中に裂け目ができ そこから蝉の成虫が姿を現し始めるのですが、途中 足が殻に引っかかってしまい なかなか出てくることができません。熊田さんたちは そのことに気づきますが、手出しせず ずっと蝉を見守ります。蝉が自力でその難局を乗り切り 無事に殻から出て 真っ白に透き通った美しく儚げな姿をあらわすと、二人は ホッと安堵するのでした。

 番組の放送後 スタジオで見ていた生物学者の福岡伸一さんは その場面に関してこのようなことをおっしゃいました。
 「手を出したくなるけれど 人間が介入するとうまくいかなくなるんです」

 これは たぶん 「いのち」に普遍なことではないでしょうか。
 もちろん 人にとっても。

 生まれることや 学ぶこと 生きていくこと。
 それに必要な時間やモノや場所は 個体によって 人によって異なります。
 良かれと思って他人が手助けしたことが 当人の生をうまくいかなくしてしまうことは、自覚しているよりも遥かに多いのではないでしょうか。
 ほったらかしにするわけでも 無関心でいるわけでも 見捨てるわけでもなく、いざとなったらサポートする用意はしつつ、見守る。そのサポートも 「(ヒトといういのちにとって)自然なプロセス」がどういうものを分かっていなければ 適切なものにはなり得ません。
 そのやり方について 人類はまだ経験不足です。
 分からないこと/不思議なことだらけの いのちや自然という“未知”に抱かれた存在として、どういうあり方が適切なのか。ヒトはその探求と自らの立ち位置の自覚のバランスをうまく取りつつ その時々の認識を世界で共有していく必要がありそうです。


# by himekoto | 2018-11-17 15:02

返信

Kさん

函館からの葉書、昨日 届きました。

函館といえば
美味しいバスク料理のレストランとお寿司屋さんを思い出します。

それから、先日のこと。
近所のスーパーの休憩スペースで
函館出身の満99歳になる女性と出会いました。
杖が手放せなくて上り下りにご苦労されているようでしたが
意識も言葉も明瞭で 実年齢よりずっとずっと若く見えます。
激動の時代を生きてこられた大先輩。
ひとり暮らしをされていて
その日訪ねてくる娘さんと その場所で待ち合わせしているのだと
おっしゃっていました。

この時期の函館は きっともう冬の入り口で、
森は 送ってくださった星野道夫さんの写真のように
霜に縁取られた紅葉が敷き詰められているのでしょうね。

Kさんからの葉書を読んで、
「時間を貯める」
という 少し前に知った素敵な言葉を思い出しました。

自分の中にたまった時間が
ふとしたことをきっかけに
外へ流れ出していく。

言葉にすること
文章にすること
自体がそうなのだけれど、
特に
手で文字を書く、
手紙を書く、
という行ないには
そんな側面が色濃く含まれているように感じます。

言葉にまつわること以外でも
必要な時間が貯まるまで
やりたくてもできないことって
いろいろあります。

待つ、ということ
ペースに寄り添う、ということ

「時間を貯める」時間を
愛おしみ 楽しみたいなぁ

また
ひとりの人には
ひとつの命には
ひとつの存在には
それぞれの
そして個や種や界や区分を超えた
たくさんの時間が貯まっているのだなぁ

だからこそ、
おとずれる「その“とき”」を大切にしたいなぁ

函館からの葉書が
私の中に時間とともに貯まり育まれていたものを
引き出してくれました。

“とき”を大事にしたいから
手書きの葉書への返信を 此度はメールで送ります。

“とき”が来たら また
風を感じながら歩きましょう。


@2018/10/20

# by himekoto | 2018-10-21 11:15

うみをいく

 のどかな、さみしさ。

 毎年この時期に開かれる奈良の古美術店の展示会の案内が届いた時、今年のテーマとなる言葉が 私のどこかにぶら下がりました。
 「古今、極東人には“寂”に敏感なDNAが宿っております。どこか胸を締めつけられるような、おだやかで少しさみしさを纏った骨董を蒐めてみました。“寂”を愛でる感情、とはどこから来るのか。」
 そう問いかける店主が選んだものが見たくて、先日 展示会へ足を運んだのでした。

 出逢った物から導かれることもあるという 年ごとのテーマ。今回は先に言葉が降ってきたそうです。

 初日の開廊直後の人波が引いた頃 会場となったギャラリーのオーナーが出してくださったお茶をいただきながら、「さみしさ」は「さようなら」と通じるものがありますね、というような話になりました。

 コミュニケーションのカタ/記号として習慣的に使っていた言葉の 語源に興味を持ち始めて その言葉があらわしているであろう概念が気に入ったものに、「さようなら」があります。
 左様なら。
 そうであるならば。
 あるサイトによれば、「さようなら」の語源は 平安時代の「さらば/然らば」に遡れるようです。
 「Good bye」や「Adios」は「神のもとで(また)会いましょう」という意味だとかつて聞いた記憶があるのですが、そのサイトによるなら「Good bye」は「God be with ye[=youの古語]」すなわち「神とともにありますように」「神のご加護がありますように」という意味とのこと。また 別のサイトには、「Adios」はフランス語の「a dieu」が語源で「神のみもとへ」を意味し もともとは民衆十字軍に赴いた子どもたちが別れの際に使っていた言葉だった、と書かれてありました。いずれにしても (人が作り出した概念である)「神」という明確な存在に紐づけられた言葉です。
 それらに対し、「さようなら」には 人の知覚が及ばない大きな流れの中に在ることを自覚しつつ その未知なるものに自らを開いて生きる姿 が浮かびます。
 いま起こっていること そして これから先のことを 既知の領域にとどめようとせず、変わりゆく現実を「然らば」とあきらめ[=「明らむ」が語源]受け容れる。私には 「さようなら」という言葉が、未知なるものの一部として“そうなっていく”ありようの 写実的な描写/表現に感じられるのです。そして その現実を受け容れて「さらば/さようならば」と次の一歩を踏み出すときに去来する さまざまな思いや感情のようなものが、「さみしさ」であったり「せつなさ」であったりするのではないでしょうか。
 「さみしい/さみしさ」や「せつない/せつなさ」は 具体的に定義できるようなくっきりとした感情ではなく、写真でいうならピントがボケた 輪郭の曖昧な概念であり、無分別な概念であり、割り切らない概念であり、(通常の概念では相反するものをも含んだ)非常に多層かつ多様なものを包含した括り。「さようなら(ば)」と現実をあきらみ[=明らみ/諦み]生きる自らの場に去来する、もろもろ一切の動や揺を丸ごと抱きしめる感慨を描写する言葉が、「さみしい/さみしさ」や「せつない/せつなさ」なのだと思うのです。それは、未知なるものへ明け渡すことを知っているものが抱く感慨、と言えるのかもしれません。

 そんなことをつらつらと考えながら帰宅した私に 家人が「今日 時空が飛ぶほど熱中した本」として 中沢新一さんと小澤實さんの対談『俳句の海に潜る』の話をしてくれました。
 家人の話に興味をそそられ 翌日さっそく本を開いてみると、そこには 中沢さんが「小澤さん以外の俳人にはしかられるだろうな」という独自の俳句観が展開されていて、それらには「さようなら」のありように相通じるものがあったのでした。
《余談:同じ時間帯に展示会に来ていた人の中に俳句をされる方がいて その方の句集を見せていただく、という 展示会とこの本を橋わたす“ちょっぴり面白い出来事”もありました。》

 中沢「俳句は、発端から言うと海民的なものだと僕は思います。自分がフローティングしていく存在そのものになって、『板子一枚下は地獄だ』というのが舟乗りたちの言い草ですが、板子一枚の薄いもので隔てられた、その舟底から感じられる自然とか死とかからの音を聞きとりながら、作品を作っていく。それが根本的な俳句の構造だったんじゃないかと思う。」(P.65-66)

 板子一枚の薄いもので隔てられた下には 自然とか死をも呑み込む人知を超えた流れがあって、それを感じつつ生きる者がしみじみと口にする言葉が 「さようなら」のように思えます。

 中沢「(芭蕉は)言ってみればいつも無の中に根を下ろしている。どこへ行っても無の中に通路があるという見方をしているわけですね。(略)
 自立するというのは自分の中に無への通路を作るということで、そういう人間同士がコミュニケーションをして共同体を作る時、初めて人間は理想的な共同体を作るというのがブッダの考え方です。」(P.76-77)

 中沢「橋の上では陸地を動いていくのと同じ感覚でつないでいくでしょう。『絆でつないでいく』と言った時は、陸上をつくっているのと同じ価値観で橋の上を渡っていくわけだ。こんな橋、渡すな。絆なんかつくらなくていい、その代わり各個体の間にある海を発見しよう。島と島をつなぐためには時々舟を出して、海の中に実際に体を乗り入れて、そうやって行って、別の島へたどり着いて、またこっちの島へ帰ってくる。つまり海で断ち切ってしまって、時々舟でつないでいくというようなコミュニケーションをつくらなくちゃいけないのであって、絆なんかつくってはいけないと僕は思うんですよ。」(P.88-89)

 「さようなら」は、自らが無の中に根を下ろしていることを自覚 あるいは 再認識するための言葉であり、海の中へ体を乗り入れていくための心構え あるいは発句、と言えるのかもしれません。そして、そんな己を客観視して発せられる「さようなら」には離脱感が漂い、それは 中沢さんが言うところの「俳句における不易」ととてもよく似ています。

 中沢「例の『不易流行』という言葉は深い意味があるなあと思っているんです。不易なものって、同時代を生きていながらも、時代から外に出ていかないといけない。(略)
 俳句の場合の不易って、たぶん、離脱ということじゃないかと思うんだけれど。(略)
 地平から離脱していくことじゃないかなあ。超俗という言葉でもいいが。その離脱の目がいろいろなかたちをとって季語ということになっていると思うんです。」(P.36-37)

 また、俳句と和歌の対比においても 興味深い視点が展開されていました。

 中沢「日本人の場合、自然を制圧したり、やわらげたりする時は言葉にするんです。王権というのは単に武力で制圧していくのではなくて、歌というかたちで自然や服[まつら]わぬものを言葉に組み入れていくということが文明ということの大きい意味でした。歌がなかったら古代権力なんてなかったと思う。」(P.23)

 中沢「西行もそうですが、なぜ芭蕉が、東の世界を目指したか。そこに言葉によって組み込まれていないフロンティアがあったからでしょう。(略)和歌は基本的に優美な文明に組み込んでいく。マイルドなかたちに自然を組み込んでいくことによって制圧するということが和歌の基本ですが、俳句はそれを否定した。否定というか、自分たちは和歌と違うんだということを…、そこで卑俗ということを言ってみたり。」(P.24-25)

 中沢「自然を記号にしていくという実践の動きそのものを愛でるのが和歌の本性で、記号は人間が作ってますから、それを破っていく行為として俳句があるんじゃないだろうか。(略)」
 小澤「記号にしてしまうのではなくて、言葉がそのまま触れることができる『もの』になるみたいなところを目指してますね。」
 中沢「(略)記号をはみ出して物質性に近づいていくということが可能になってくる。動植物ってそういうふうに生きているんです。イリュージョン(幻想)がないですから。人間の最大の能力はイリュージョンを持つことですけれど、このイリュージョンが記号化したり文明の世界を作ってくると、自然は入らなくなってきます。人間にはそういう欲望があります。都市を作るのは自然が入ってこないような空間を作るということだから。快適な暮らしがここで実現する。でも、それはイリュージョン。病気を作っちゃうでしょう。」(P.27-29)

 神話も「Good bye」や「Adios」も和歌も 「島に橋を渡す」陸上の価値観の上にあるもの、ある一つの体系に組み込む/組み込まれたもの。そこから離脱して海を発見し漕ぎ出すための回路が 俳句であり「さようなら」というあり方。そう捉えることは それほど的外れではないと思います。

 そして、海をいく舟は常に揺れていて 一つの状態に落ち着くことがありません。
 すまない、のです。

 「さようなら」の他に 私が語源を知って気に入った言葉に「すみません」があります。
 かつて受講した大和言葉の語源の講座では、「すむ」とは もともと「一つの状態に落ち着く」意だと説明されていました。確かに「住む」も「済む」も「澄む」も ある状態に落ち着いたことを表しています。その説が正しいとするなら、その言葉は 非常に描写的なものであって、謝るというような感情は含まれていないことになります。「さようなら」と同じく、いま起こっている事態から離脱して捉える視点が そこにはあります。

 構築したり 体系化したり カタチにしたりすることは、世界を認識し生きていくうえで必要かつ大切なはたらきですし、宇宙の営みから見ても自然なことです。ただ、それが固定化してしまうと 生命や自然や宇宙に普遍の“流れ”をとどめ 淀みを生んでしまいます。
 それを回避するためには、記号や枠や体系や現状を揺さぶり変容させていく「すみません」が必要なのです。

 両手に「さらば/さようなら(ば)」と「すみません」の櫂を持って海を漕いでいく そんな人間の胸に去来するのが、「さみしさ」や「せつなさ」。日本人が 侘び寂びをこよなく愛するのは、日本語の中に つまりこの日本列島で育まれてきた感性・価値観の中に 揺れ動き移り変わることと深く結びついた“海民的な回路”が残っているからかもしれません。

 「さみしい/さびしい」の語源は 「さぶ」であり 「さ」に「ぶ」という動詞化させる言葉がついたもの、という説明があるサイトに載っていました。「さぶ」を「荒ぶ」意とする見方もあるようですが、「さ」が 「さき(先、崎)」や「さく(咲く)」から類推できるように、現状に裂け目を作ったり現状を切り拓いたりする (別の相や地平へ)「割く/裂く」動きやはたらきを表しているとするならば、それを動詞化した「さぶ」は (中沢さん言うところの)俳句や「さようなら」や「すみません」同様に 離脱感や未知へ明け渡すありようを色濃く漂わせる言葉と言えます。

 時代が下るに従って 個体の底に広がる無や海との回路が閉ざされ すべてが陸に塗り固められていく現状において、記号としてだけでも「さようなら」や「すみません」という言葉があったり 「さみしさを愛でる」感性が残っているのは 一縷の希望です。

 のどかな、さみしさ。

 いい言葉だなぁ。





【追記(2018/09/05)】

 「さようなら」は「あい」にとって重要かつ不可欠
 「さようなら」と「あい」は 同じ地平にあるコトバ。
 とすれば、「さみしさ」もまた「あい」に深く関わるもので、“のどかな、さみしさ”という言葉に 懐の深い「あい」を感じます。


# by himekoto | 2018-01-30 21:12

知覚の自覚

真を写す
と書いて
写真

なんだか
ちょっと
傲慢だな

光で描く
を意味する
photograph
のほうが
私にとっては
おさまりがいい

可視光
という
人間の知覚の限界を
わきまえている
ように
思えるから




# by himekoto | 2017-08-01 14:59

余黒

ひとは

余白

というけれど

可視光とつながる白よりも

」は

不可視の黒がよく似合う



# by himekoto | 2017-08-01 14:54